資本主義の成熟

戦後も75年を数えます。もう戦後も4代目に入ります。
和平時の4代目というと、江戸時代では元禄、化成の感を抱く人も多いでしょう。
資本集積の差が顕著になり始めるころでもあります。
江戸時代ではその頃から商人の台頭と、武士道の礼賛が始まり、戦国時代以前の家柄と戦国、安土桃山、徳川時代に台頭した家柄とのすり合わせが行われました。
明治時代には大正デモクラシーとそこから続くテロルの連鎖、そして中国進出から、最後となる太平洋戦争への道が切り開かれた時期に当たります。
現代の格差について言えることは、先進国としては大きな格差ですが、アジア諸国と比較すれば、いまだに小さな格差である、ということです。
所得と犯罪率、失業率と犯罪率には悲しいことに有意な関連が見られるそうです。
私は、国の福祉政策で月に10万以上の収入があるので、地方では苦しいとはいえ、不満を言える立場にないのですが、職が無かった時代や、派遣などの流動雇用で鼻であしらわれた経験のことを思い出すと、癇癪が破裂しそうになります。
ここで、少し犯罪について哲学的に考えてみましょう。犯罪は悪です。正義は善です。非犯罪は善でしょうか、悪でしょうか?
この善とも悪とも呼べないものを正義の不完全性定理と呼びましょう。
ところで、私たちの世界は量子論的に決定されていると言います。
ボーアが唱えたコペンハーゲン解釈や、多世界解釈では確率の関与が存在し、そこに人間原理として、人間の自由意志の裁量が確かに存在すれば、犯罪というのは避けられるもので、犯罪者はその努力を怠ったと言えます。
しかし、万物理論の存在が仮定されたり、アインシュタインによる確定世界、また、聖書で有名な予定説が正しければ、そこに一切の自由裁量は存在しないはずで、犯罪者は犯罪的思想に触れるべくして触れ、犯罪を犯す環境に置かれるべくして置かれ、犯罪を行うべくして行ったと言えます。
この後者の場合、犯罪の意思性を断言することができるでしょうか? そして、前者の場合、意思の介在をどう判定すればよいのでしょうか?
これを正義の不確定性定理と呼びましょう。
これは、論証と証拠、動機が積み重なれば積み重なるほど、被疑者の自由意志の作用確率が低下し、逆に罪の形式性が上昇することを見て、こう書いてみました。
この二つを適用すると、善と無矛盾不完全性と悪の全てが不確定で不完全な判定だという結果に…!
おかしいなあ?
…まあ、そのなんですか、理屈はどうにでもなるということで。
言いたいことは、日本の非熟練失業者や、低賃金労働者は余りに環境が過酷だから、犯罪的な思考に走っても仕方ないのでは、ということです。
私も、昔、試用期間で首にされたり、派遣先に集合させられた挙句、そのまま、名前も呼ばれずに追い返された時は次の職場が無かったら、その社長や、管理責任者の子供を探し出して道ずれに××とか考えてしまったことがあります。
日本の非熟練労働者に対する扱いは非常に酷いように感じるのは、日本がまだ、先進国の金看板を下ろしていないからかもしれません。
先進国であるという奇妙な教育上のプライドが様々な葛藤を心に生じさせるのかなあと思います。
本当は労働組合や労働基準監督署などに真剣に相談すればよいのでしょうが、共産主義は負けましたし、日本の労働運動は労使協調で、民主党政権の敗北によって完全に挫折した感があります。
これから先、資本主義は更なる成熟に向かいます。
私は農民の子孫と親からは聞かされていますが、その私は結婚もしていないし、子供もいません。
次の時代も労働者は必要です。現代の貴族階級として旧華族と財閥組と戦後成功の中規模資本家の比率が7%を超えているなら、次の世代の権利獲得は絶望的でしょう。次は下級武士、その先は過去の身分制では未踏破の領域に入ります。
労働組合にも頼れない以上、かつての農民一揆のように実力行使が定期的に起こらないと何の対策も取られないのかもしれません…。
さて、ここまで、書いておいてなんですが、私は犯罪は良くないと思います。
駄目、犯罪。絶対。駄目、テロル。絶対。
では失礼して。

テロルは罪