SF・ファンタジーの政治

幼年期の終わりにと2001年宇宙の旅を読んだことあります?
どちらもアーサー・C・クラーク先生の名作ですが、どちらも人類よりも進んだ文明か超自然的存在を仮定してあります。
知性化戦争とかもそうですし、エンダーのゲームなんかもそう。銀河ヒッチハイクガイドとかもそうです。
逆にファウンデーションシリーズでは、アイザック・アシモフ先生が、人類こそが最も進んだ文明であるという力強い断定に基づいた独自の世界観を見せてくれます。
これらのSF群は、人類の文明との邂逅で現実政治上起こった、あるいは起こる可能性のあった政治を下敷きに描かれていて非常に興味深いです。
まず、人類が最も進んだ文明ではないという謙遜を含んだ空想から考えてみましょう。
地球上の歴史では、そういう例は両手に余るほどあります。
わかりやすい事例を挙げると、大航海時代以降の西欧が取った後進国への扱いは多様な結論を見せてくれます。
アフリカ大陸と極東がネグロイドとモンゴロイドに残っただけ奇跡のような時代でした。
ところで、SFやファンタジーの黒い作品では人類以上の文明力を持ちながら、怜悧な計算づくの友好や侵略を描いたものがいくつかあります。
実際、そこまでの技術差を持つ異星人がいるなら、おそらく、人類には文明のシンギュラリティにたどり着かない範囲で友好を与えてくれるか、一息に滅亡させようとするでしょう。
逆に、そういった合理性を超越した超文明があるのなら、彼らの隣人愛は惜しむことなく与えられるのかもしれません。幼年期の終わりのように。
さて、次は人類が最も進んだ文明であった場合です。
その場合、人類は宇宙の生命の到達点で、そこから先は全て努力にかかっています。
自然と、世界との競争が行われて、人間は宇宙中にあふれることができるのかもしれません。
聖書の生め増えよの言葉が実践されるのかもしれませんね。
人類が究極の知性であるとしたとき、残酷なのは、人類に助けと逃げ場はないということです。
ワンチャンスなんですね、きっと…。ファウンデーションシリーズのように人類のフロンティアスピリットの火を消さないように努力しなければならないのでしょう。
昨今の科学技術の進展を見るに、人間は幼年期を終えたのかもしれません。
大国同士の戦争は回避され、経済効率性と基本的人権の平等が成り立っています。
未知のフロンティアを切り開く、SFやファンタジーの夢と、現実の発展に!

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