勇者の政治力学

ゲーム、ライトノベル、漫画に活躍する勇者や英雄たち。彼らの政治力学に迫ります。
閉鎖循環系の経済を仮定します。内世界の冒険は結局、王権と宗教に至って終焉を迎えてしまうことがほとんどです。
だから、そこで外世界の冒険を夢見てしまうのですねえ。
放蕩息子の帰還や、ギリシャ英雄譚の世代から、植民地の開拓や、異民族との交流は見果てぬ夢でありましたから。
この外世界の冒険が始まると開放型重商主義の経済が仮定されます。
圧倒的に劣勢な政治状況の中、勇者、英雄が現れてすべてを解決してくれる。
一種のメシア信仰の形を変えた英雄待望論にあこがれてしまう私たちの儚い妄想力が、ゲーム、ライトノベル、漫画を一大カウンターカルチャーの殿堂に押し上げているのでしょう。
ところで、王様と宗教と勇者の関係はどうなっているのでしょうか?
現実世界では、王権と宗教を押さえた英雄が外征するという形がセオリーですが、…ここは参考文献を参照しましょう。
まずは、ニーベルンゲンの歌から。
英雄、ジークフリード王子。無敵な上にニーベルンゲンの財宝をも持った王子。全ての権力がここにジークフリード王子に!
この全てを持ったジークフリード王子は女性を求めた冒険の雛型でしょうね。そして、その女性が無敵のジークフリードを滅ぼす一翼を担うのだから運命というのはわからないものです。
おおむね、ライトノベルやRPGの主人公は女性を求める冒険が多いです。ファンタジーの世界ではなんでも叶ってしまうのだから、ロマンスに全てを費やすのも夢としては正しいでしょう。現実世界では植民型の冒険であるフロンティア欲求が多いですがね。
次、ドラゴンクエスト。
姫をさらった竜を探索してたら、ついでに竜王も倒してしまった!
とにかく邪悪な世界の住人がいないとRPGは成り立ちません。序盤は貧弱な勇者が修練を積み、力を蓄えてやがて、世界を脅かす脅威を退ける。
ドラゴンクエストⅠでは勇者は選ばれた血筋ですが、別に王様でもないですし、神父様でもありません。
最後はさらわれた姫と共に新しい植民を果たす旅にでかけるエンディングとなっています。
姫が勇者になびくところを除けば、案外妥当な結論です。救世の英雄と王権は並び立ちづらいものです。どちらが勝つにせよ血みどろの戦いですから。
英雄が新天地を探すのはロマン溢れる物語です。
今でいうとアメリカンドリームみたいな感覚ですかね。
最後、ファイナルファンタジー。
時間的な要素を取り入れた本格風味ファンタジー!
単純な筋ですが、やってみると面白いです。
正しい歴史に回帰して光の戦士たちの活躍を知るものもいないという筋。
壮大です。勇者してますねえ。
勇者たちのその後を知るものもいない…。
人生などというものはおおむねそういうものでしょう。人知れず競争が行われ、勝った人間がその後もまた競争を行う日々…。
と、と、時間とファンタジー世界をめぐる壮大な物語だけにその後と、王権や宗教との関係はあったとしても完全に蛇足でしょう。
子供のころはみんなそんな綺麗な英雄になれるんだと思うものです。
他にもあげればきりがないのですが、勇者や英雄は周囲を感化する力も含めて勇者や英雄なのでしょう。
歳を取ってから、そういうのに触れると、子供のころの憧憬とは違って少し寒気に襲われてしまうのは自己嫌悪に陥る大人の秘密です。
私の心はけがれている!
ところで、開放経済系での現実よりの世界での勇者や英雄はどう振る舞うのでしょう。
そういうの考えてしまうから全く、ファンタジー狂というものは…。

ジークフリード